皿の上の林檎

 玄関先で涙を流す母親を、僕は振り返って見ることが出来なかった。
大学へ進学するということで一人暮らしをすることになり、先週から最後の実家での生活を送っていた。
荷物を整理し、僕は大分すっきりした部屋を見渡し、玄関までやってきた。
玄関では、母親が今にも泣き出しそうな面持ちで二階から降りる僕を呼び止めた。
「夏休みとかちゃんと帰ってきてね…」
そう言うと母親は茶封筒に入った十万円を僕に渡してきた。
その触れた母親の温かな手が、とても柔らかく感じた。
玄関を出ると、大粒の雨が黒い地面を強く打っていた。
大きな黒コウモリを差すと、僕はそのまま駅へ向かって歩いて行った。
母親の流す涙が、雨粒に混じって黒い地面へと融けて行くのを僕は背中で感じていた。

それから数ヵ月後。
久々に実家に帰って来た僕。
そんな僕を出迎えてくれたのは矢張り母親だった。
嬉しそうな母親の顔。
この家を出る時とは正反対の顔に、僕は心底ホッとするのを感じていた。
ほんの数ヶ月の間だけれど、母親は随分と老けた様に見えた。
白髪の数も、大分増している。
そんな母親の姿を、僕は何だか直視出来なかった。
母親の嬉しそうな声。
その声を背に、僕は階段を登り自分の部屋に帰って行った。

 部屋は、僕が家を出た当時のままだった。
しかし布団は綺麗に畳まれ、洋服も綺麗に箪笥の中に仕舞われていた。
その布団を見た途端、涙が自然と流れ出るのが分かった。
冷たい……けれど温かな涙。
僕のことを、必要としている人がいる。
そのふかふかの布団の上に体を横たえ、僕は暗い部屋で一人泣いていた。

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