神祀リノ邑 報告書(一)

      (八月十一日)

 正岡照彦、二十四歳。
大学で民俗学を専攻し、駆け出しの民俗学者となった俺が最初に興味を持ったのが、古い村に伝わる伝承や儀式。
某県の山岳地帯に嘗て存在したと云う神代村八角村酉竃村
俺は、この三村に纏わる儀式について調べを進めている。
現在までに古い書物や口承から調べた結果をまとめてみた。

 まずはこの三村における儀式について。
加箕嶽かみだけの南に展開するこの三村。
共に村の災厄祓いや繁栄の儀式を行っていた。
儀式には生贄が神に供えられると云う点では共通の部分が見られる。
けれどもその儀式の方法は、其々の村で異なっていた様だ。
水神を祀る酉竃村では生贄を村の中心の池に沈めていたと云う。
金の神を祀る神代村では生贄ははりつけにされたと云う。
そして土の神を祀る八角村では生贄は生埋めにされた。
其々神への感謝畏敬の念を、贄を捧げる事により何百年と表わしてきた。
その儀式は、実は其々呼び名が違う。
水没の儀は禊祀みそぎまつり、磔の儀は贄祀にえまつり、生埋めの儀は稀人祀まれびとまつりと。
稀人とは、神が人間の姿をして現れると云う所謂神の化身のことである。
どうして異なる呼び名をするのかは定かではないが、恐らく信仰神が違うことと他二村との差別化故と思われる。
差別化を図る必要も無いように思われるが、その辺は推測し兼ねる所だ。

 そして、この村々が廃村となったのは、明治の後期である。
それまでは外界と隔離されたその地でひっそりと受け継がれていた。
明治維新後の神仏分離令の影響からか、明治中期頃から急速に衰えていったようである。
けれども詳しいことはまだよく分からない。
今後も調査を続けるが、情報が入り次第追記していく所存である。

             忌祓ノ刻(肆)
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