中に足を踏み入れると、何処からとも無くいい香りがした。
今まで嗅いだ事の無い香り。
これが西欧の香りか。
胸いっぱいに香りを吸い込み、人を呼ぶ。
しかし、誰も出てこない。
今は留守なのだろうか。
それにしてもドアも窓も開けっぱなしで出かけるとは。
踝を翻し、この家から出ようと思ったその時だった。
部屋の奥で何やら音楽が聞こえているのに気が付いた。
どこかで聞き覚えのあるクラシックの名曲。
ドビュッシーの月の光とか言う曲だったか。
位置的にあの黒いカナリヤのいた部屋のようである。
誰かいるかと思い、悪いとは思いながらもその部屋へ入っていくことにした。

 明るい洋室にいたのは若い少女だった。
まだ十代と思われる少女は、雅なソファの上で優しい寝息をたてていた。
読みかけの英字文学本と飲みかけの紅茶が新鮮だった。
余りのキレイな寝顔に、声をかけるのも憚れた。
ここは大人しく夢見る少女をそっとしておくのがいいだろう。
けれどもここに来たという標(しるし)を残したい。
ポケットに入っていた黒いペンを取り出す、そして件の瓶。
簡単にさらさらと書くと、夢見る少女を部屋に残し表へ出た。
空にはいつしか真っ白な雲が湧き上がっていた。
バラのアーチを潜ると、あのカナリヤの声が一、二回聞こえてきた。
バラの香りは家の中の西欧の香りに負けず劣らず強かった。
 『あなたの寝顔はいただきました。返して欲しければ川の下流の青い瓦屋根の家まで来てください』
乾いた土の坂を下る間中、カナリヤと西欧の香りで胸がいっぱいだった。

             

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