神祀リノ邑 報告書(三)

      (八月十七日)

 今回は村の繁栄と衰退について記していこうと思う。
まず、この三村が繁栄してきたのは今から四百三十年程前らしい。
つまり、儀式が行われ始めたのとほぼ同時期なのである。
村の人口もこの頃から増え始めてきたようである。
これは村の繁栄は儀式が握っていると思って間違いないだろう。
儀式を行うことで、何故か村は繁栄の道を辿っている。
これは実に興味深いことである。
現段階では未だ儀式の本質は見えてこないが、恐らく民間信仰の一種と思われる。
神に生贄を捧げるという信仰は全国に見られるが、この村々もその一つなのであろう。
そして神へ生贄を捧げることで村々は泰平を手に入れることが出来たと思われる。
それから実に三百年もの間、村は廃れることなく繁栄を続けてきた。

 けれども、ある時期を堺に急速に衰退の一途を辿っていたのだ。
それは今からおよそ百十年前の明治中期のことである。
文献によるとこの年も儀式を行うはずであったのだが、生贄とされた少女が逃げ出したのだと言う。
しかもこの三村の生贄三人が揃って逃走したらしい。
こんなことは前例が無かったから村人達は相当慌てたそうだ。
無理も無いだろう、神に運命を託した村の繁栄は生贄あってこそのもの。
その生贄が逃げたとあればこれは村の衰退を意味するのである。
そして案の定、文献にはこの年を堺に村は繁栄する事は無かったと言う。
これが村を衰退させた理由である。
今の時代からすれば考えられない理由かもしれないが、当時のこの三村にとって儀式とは村の運命を握る生命線でもあったのだ。
この辺が民間信仰の面白い所でもあると俺は思っている。


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